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「TPドクター整体 一福」
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【日本人の物語】④責任 ~大西瀧次郎・海軍中将の場合~

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(「あの日」からちょうど75年経ったこの日に—)

現代経営学の創始者にして一代の巨人、ドラッカーはその著書においてこう述べています。

“経営の本質とは、『責任』にほかならない”

この「責任」というテーマに関しては、古今東西数え切れないほどの考察・論説がありますが、

ある人物の生き様が、

それがどういうものかを、他の何よりも強く自分に語りかけてくれます。

【《責任》 大西瀧次郎 海軍中将の場合】

昭和19年、太平洋戦争末期。

いよいよ戦局が敗北へと傾く中、

日本最後の重要拠点、フィリピンでの戦いが始まりました。

ここが陥ちることは、確実に日本の敗戦を意味していました。

現地の航空部隊を指揮するため、日本から着任したのは大西瀧次郎中将。

海軍航空隊を一から創り上げ、航空戦においては自ら操縦桿を握って陣頭指揮をとり、

山本五十六に次ぐ、《海軍航空隊の父》と言われた存在でした。

しかし彼が着任した時には、その手元にはもうほとんど航空戦力は残っていませんでした。

“この数少ない戦力で、どうすれば敵に有効な打撃を与えられるか”

思いを巡らせる彼の頭に、

以前より再三、現場と中央から実行への計画が出ていたある作戦が浮かびました。

“もう、体当たり攻撃しかない”

それがどれほど愚かな作戦なのか、彼が一番よく分かっていました。

これに先立つこと一年半前、部下から彼の元へと集まってくる特攻許可の要請を、彼は拒否しています。

その彼がなぜ特攻を決断したのか。

彼の語った言葉が残されています(以下要約)。

“もう戦争は続けるべきではない

しかしここで敵を追い落とすことができれば、不利な条件でも何とか講和にもちこめるであろう

万一本土にまで押し寄せるようなことになった場合、アメリカは恐ろしい国である。

インディアンやハワイ民族のように、闘志ある者は次々とやられ、

残る者は女子供と意気地の無い男だけとなり、

日本民族が再興することは二度とないであろう。

そのためにも、特攻を行ってでもフィリピンを最後の戦場にしなければならない

しかしこれは九分九厘、成功の見込みは無い

では見込みもないのになぜこのような強行をするのか”

“ここに信じてよいことがある

いかなる形の講和になろうとも

日本民族がまさに滅びようとする時にあたって

身を呈7してこれを防いだ若者たちがいたという歴史の残る限り

五百年後、一千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう”

そして今日からちょうど75年前のこの日、1944年10月25日—。

断腸の思いで彼が命令を下した〈神風特別攻撃隊〉が、史上初めて敵艦へと突入しました。
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(↑被弾し火を噴きながらも突入する特攻機)

これによって米軍は(まだ有効な対策を知らなかったこともあり)無視できないほどの損害を受け、

そしてそれ以上に計り知れない精神的衝撃を、米兵に与えました。
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(↑史上初の特攻攻撃を受け、大爆発を起こした空母「セント・ロー」※この後沈没)

昭和20年5月、大西は転属命令を受け、陥落寸前のフィリピンより日本に帰還。

自宅には戻らず官舎で独り暮らしをし、妻の淑恵夫人とは一緒に住みませんでした。

それを聞いた者が彼にこう勧めました。

「週に一度は帰宅して、奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」

この言葉に彼は声を荒げてこう答えました。

“君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。614人もだ。

俺と握手していったのが614人もいるんだよ”

そう言う彼の目は涙であふれていました。

彼には、最後は必ず自分も特攻隊員の後を追うという覚悟ができあがっていました。

しかし、自らにそのような覚悟があるからといって、

特攻が決して正当化されるようなものではないということを、彼は次のように語っています。

“こんなことをしなければならないのは、日本の作戦指導がいかにまずいかを表している。統率の外道だよ”

“おそらく自分が死んで100年経った後も、誰も自分のやったことを理解しないであろう”

昭和20年8月16日、敗戦の翌日未明—。

大西は全ての責任を背負い、自宅にて切腹。

多くの若者を死に追いやった償いとして、

なるべく長く苦しんで死のうと決意した彼は、介錯をつけませんでした。

(切腹は死に至るまでに大変な苦痛を伴うため、通常は短刀で腹を突いた時点で、ただちに傍らの者が介錯を行います)

自らの血の海に倒れた彼はそれでも死なず、凄まじい苦痛に苦しみながらも、

彼の元へ駆けつけた者が医師を呼ぼうとするのを拒みました。

そしてさらにその者が彼に続き自決しようとした時、

死にゆく者のものとは思えない力強い声で、その者を一喝しました。

“馬鹿者。お前などが死んで何の役に立つか。若い者は生きるんだよ。

生きて新しい日本を創れ”

それから15時間—。

多くの若者を特攻に送り込み死に追いやっておきながら、

その罪から逃れて敗戦後ものうのうと生き延びようとする、大勢の将校たちの中。

その重すぎる罪をたった一人で背負い、

自身の血の海の中で半日以上も苦しみ抜くという、

『特攻命令を初めて出した者』としての〈責任〉を、これ以上ない形でとり、

彼は絶命しました。享年54。

後に親しい友人がこう語っています。

“たとえ戦争に勝っても大西は自決していただろう。そういう男なのだ、彼は—”

大西は遺書を遺していました。

(彼の落とした涙で、発見時その遺書はふやけていたと伝えられています)

そこには、彼の掌に温もりを残し空へ旅立っていった特攻隊員達への感謝とその遺族への謝罪、

さらに後世の子孫へと宛てたメッセージを残していました。

“どんなに苦しくとも日本人であることの誇りを失わず、

全国民の幸せと世界人類の平和のために、最善を尽くすように”

さらに死の間際、彼は淑恵夫人にこう言い残していました。

“平和になったらフィリピンに行き、私が住んでいた所、特攻隊が生まれた所に行きなさい。

私はそこにいるから・・・”

それから30年後の昭和50年—。

戦後、特攻隊員の慰霊に半生を捧げた淑恵未人は、

フィリピンにある特攻隊誕生の家を訪れ、

大西中将がいた部屋に入り、亡き夫との再会を果たしました。

未人の胸中に浮かんだものは、この時何だったのでしょうか—。

その後生涯を閉じるまで、夫人は特攻隊員の慰霊活動にその身全てを捧げ尽くしました。

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