(長崎への原爆投下から七十年目のこの日に—)
三年半にも及ぶ血みどろの死闘の末、
広島・長崎に原爆を落とされ、ついにアメリカに屈した日本。
しかし降伏後もなお、その原爆に立ち向かった一隻の日本戦艦がありました。
それはかつて全日本人から、“我々の誇り”と謳われた艦でした—。
~戦艦『長門』の最期~
戦艦『長門』。
大正時代に呉で建造され、『大和』の誕生までは世界最強クラスの性能を誇る戦艦でした。
【日本の誇り】とカルタにも詠まれ、広く国民に親しまれていました。
秘密裡に造られた『大和』の存在を知らなかった国民にとって、
『長門』こそが【日本の護り】であり、
三流国から有色人種唯一の≪世界五大列強≫にまでのし上がった、自分たちの誇りでした。
日米戦争中の数々の激戦を戦い抜き、
『大和』はじめ他の戦艦が次々と沈みゆく中、
唯一の行動可能な戦艦として、ただ一隻生き残りました。
そして、敗戦—。
米軍に捕獲され、「フネの魂」とも言うべき軍艦旗をも奪われた『長門』。
その最後の戦いの相手となったのは—、
【原子爆弾】でした。
日本への見せしめとして、アメリカの原爆実験の標的とされたのです。
太平洋ビキニ環礁で行われた、第一回目の空中核実験。
『長門』は爆心予定地から400mの地点に置かれました。
1946年7月1日—。
凄まじい閃光・轟音と共に、空中に人工の“太陽”が出現。
それはトリニティ・広島・長崎に続く、人類史上四度目となる核爆発の瞬間でした。
時速1300kmもの強烈な衝撃波と瞬間摂氏三十万度にまで達した炎により、
同じく標的となった他の艦が燃え盛りながら沈んでいった中、
表面がわずかに溶けただけで、『長門』はほとんど揺るぐことなく海上に浮かんでいました。
そして続く二回目の水中核実験。
今度はほぼ爆心地である、200mの至近距離に置かれました。
さらに米軍は意地でも沈めようと、『長門』にだけ船体に穴を開け爆薬までセットしました。
1946年7月25日—。
第二実験となる核爆発装置が水中で起動した瞬間、
前回を遥かにしのぐ凄まじい衝撃波が発生。
空は燃え、海は煮えたぎりました。
太平洋の楽園ビキニ環礁は、再び熱線と放射線と衝撃波の“地獄”と化し、
『長門』と同じ距離に置かれていたアメリカ戦艦『アーカンソー』は、
衝撃波によって一瞬にして空中に吹き上げられた上に真っ二つにされ、轟沈。
『長門』の姿も瞬時にキノコ雲の中に消え去り、
一回目に生き残った他の標的艦も、粉々に四散し沈んでいきました。
轟音と爆煙が去り視界が晴れ、
全てが“無”に追いやられたはずの爆心地の海面には—、
ボロボロに焼けただれ、
わずかに右に傾きながら—、
大正時代の日本の古い艦が、空中と水中、
至近距離から原爆二発の直撃を受けながらこれに耐え抜いたのです。
まるで罪なき十数万の市民を生きながら焼き殺し、
母国日本を破滅へと追いやった非道のアメリカと原爆に対し、
かつての【日本の誇り】として最後の意地を見せるかのように。
同時にそれは、
明治以来営々と積み重ね、磨き上げられてきた日本の造船技術が、
人類史上最凶最悪の兵器の破壊力に打ち勝った瞬間でした。
これにはさすがの米軍も驚嘆し、『長門』を除染し調査に乗り組みました。
調査終了後—、
調査官は次の言葉をブリッジに書き残し、『長門』を去っていきました。
“Old navy never die(海の古強者は死なず)”
また日本にも「『長門』沈まず」の報は届けられました。
“英霊達が皆で船底から『長門』を支えている”
取材を受けた当時の日本国民がたった一言、そう呟いたと伝えられています。
しかし、実験から四日間何事もなかったかのように浮かんでいた『長門』は、
五日目の朝、忽然と海面から姿を消していました。
おそらくわずかにできた傷口から徐々に浸水が進んでいき、
前日の深夜、誰にも看取られることなく静かに沈んでいったものと思われます。
その後に待ち受ける、米軍の手による解体・爆破という運命と、
自らの死に際を見せることを拒むかのように—。
人知れず静かに自決した、日本古来の《武士(もののふ)》を思わせる最期でした。
こうして、かつて近代日本の栄光を一身に背負った艦として、
そして世界第三位を誇った日本海軍、その最後に残された戦艦として、
日本の誇りと名誉を守り抜き、長門は海底に沈んでいきました。
現在ダイバースポットとして、ビキニ環礁の海底深く、永遠の眠りについています。
~エピローグ 『長門』の軍艦旗~
敗戦時に米軍によって奪われた『長門』の軍艦旗は、
その後米軍将校によってアメリカに持ち帰られた後、その友人の手に渡り、
その息子が「開運なんでも鑑定団」の鑑定へと出品しました。
その評価額、1000万円。
これを聞き、同じく司会を務める島田紳助氏に、500万ずつ出して旗を買い戻そうと持ちかけた石坂浩二氏。
その島田氏が出さないと知るや、直ちに全額1000万を一人で出し、買い戻しました。
こうして半世紀の時を超え、『長門』の軍艦旗が海を渡り日本へと還ってきました。
自らの手によって還ってきたことに、「運命を感じる」と語った石坂氏。
その石坂氏より、「『長門』が生まれた最もふさわしい場所に」という呉の大和ミュージアムに軍艦旗は寄贈され、
展示区画の傍らにひっそりと飾られています。
そして石坂氏が払った軍艦旗の購入代金1000万は、
出品者の臓器移植の手術費用へと充てられました。
『長門』は時を越え、怨恨すら超えて、
かつて敵国だった国民の命を救ったのです。